100日後に◯◯になる当麻:0日目

 他人名義で借りている「仕事場」であるワンルームマンションには週に何度か通う程度なので、職場として足繁く通いつけているというわけではなかった。
 当然同じマンションの住民など誰一人顔を知らない。時折エントランスやエレベータで誰かと行きあうこともあるが、顔を認識するような関係ではない。
 なので同じフロアの、それも隣の部屋に少年がいると言うことを、今日彼が帰宅するところに偶然行きあって初めて知った。
 集合住宅でよくあるように、エントランスにある集合ポストで隣の部屋番号のついたポストを開けて中身を取り出している制服姿の少年がいたので、すこしタイミングをずらして自分の郵便物を確認した。
 エレベータホールに行くと、上層階から降りてくるエレベータを待っていた少年が軽く会釈をしたので同じようにそれに返し、降りてきた箱に乗って6階へ上がった。
 刺激の少ない小さな箱の中で神経を研ぎ澄ます、エレベータということの空間は、人間を不安定にさせる。
 箱が昇降するわずかな時間に迷走神経反射だの不安神経症だの閉所恐怖症だので人事不正に陥るものもそう珍しくはない。
 なので、監視カメラもついていないこの牧歌的なエレベータの中で少年が倒れてしまっても、それは特段珍しいことではないのだ。
 実際には、フラッシュという手法で催眠術をかけて一時的に意識を奪ったのだが、ぐったりした少年の肩を抱いて廊下に出て、そこで彼の耳元に鍵を取り出して自室の扉を開けるよう命じれば、ふらふらと不安定な動きで手にした学生鞄からキーホルダーを取り出し、ガチャリと鍵を開けた。
 鍵穴に鍵を刺したまま動きを止めてしまったので、少年の手に自分のそれを添えるようにしてその鍵を抜いて、少年の家であるはずのその部屋へと上がり込んだ。
 無論、少年の肩を抱いて彼を連れて、だ。
 このマンションのエレベータは中にはカメラがないが、出入りを監視するため各階のエレベータホールに監視カメラが設置されている。
 あれが本当に動いているのが、動いているとしてもリアルタイムの画像をどこかへ流しているのか録画をしているのか、たいそう怪しいものだ……と思ってしまうのは、ここがあまり治安の良い物件ではなく、空き巣だ強盗だと時折騒ぎが起こっているのに犯人が捕まったいう話をほとんど聞かないからである。
 ともあれ、カメラに映る範囲から移動して部屋の中に移ってしまえば当然のことながら人目はない。
 どう見ても中学生か高校生であるこの少年がなぜ狭小ワンルームマンションに住んでいるのか、何かしらの訳ありなのだろう。
 少年の肩を抱いて連れ込んだその部屋は、作りは自分の仕事場と同じ、玄関を入るとごく狭い廊下のわきに電熱コンロが一口とそれとさして変わらないサイズの小さなシンクのついたキッチンと言い張るものがあり、正面には正方形の小さな浴槽が形ばかりついたユニットバス、キッチンとユニットバスの間にある小さな入り口を90度曲がると六畳ばかりのフローリングの部屋があって、それで全てである。
 背丈が高く足元に引き出しがついたベッドが一つ、本棚がついた机が一つと椅子、パイプで作られた簡素なコート掛けが一つ。
 部屋にあるものはそれで全てだ。
 このサイズの部屋に住むならこうせざるを得ないだろうという予想通りのぎゅうぎゅう詰めの安普請で、ベッド以外には座り込むような場所もない。
「今時ビジネスホテルでももう少しマシに作るのではないか……?」
 そうは言ってみても、フラッシュで意識を喪失している状態の少年は何も応えない。肩を押されるままにベッドに座り込んだままである。
「催眠術がよく効くタイプか。よほど抑圧されていると見える……」
 日に当たると少し青く煌めくような髪色をした少年の顔立ちは、少女めいて整っている。
 鞄のポケットを勝手に探って生徒手帳を確認したところ、ここから電車で数駅のところにあるなかなかに偏差値の高い私立校の中等科に通っている14才だということがしれた。
「はしば、とうま……と読むのか。なかなか珍しい名前だな」
 その小さな部屋の中を軽く家探しし、身分証明書としてか戸籍謄本や住民省の写しを初めとする重要書類が保管されている引き出しを見つけて、そこに描き出されていた複雑な家庭の事情が窺い知れた。
 現在の名は羽柴当麻だが、生まれた時の姓は羽柴ではなかった。
 母親の再婚に伴って羽柴家に入ったが父親との養子縁組はしておらず、そのまま父母が事故死したことで他の兄弟と受け取ることのできる遺産に違いが発生した……具体的に言うと、父方の連れ子である兄二人には父の遺産の四分の一ずつが与えられ、当麻には母の代襲相続として兄達の2倍の相続額となったことで、兄や父方の親類と関係がこじれた。
 そのため、弁護士を管財人として羽柴家と袂を分かった……ということが、引き出しに仕舞い込まれた数々の書類から推察できる。
 つまりこの少年には、現在近しい家族が存在せず、管財人となっている弁護士とも頻々と連絡を取っているわけではないようで、幸福に暮らしているわけではないということが窺い知れた。
 ぼんやりとベッドの端に座ったままの少年は催眠感受性が極めて高い体質であるようで、目の前でプライバシーに関わる書類を漁られていてもまるで視界に入らない様子でいる。

 催眠術というのは基本的に、被術者が嫌がっている事柄を無理矢理行わせることなどできない。
 自殺願望のない人間に自らを殺す指示は受け入れられないし、殺人願望のない人間に他者を殺す指示は受け入れられないというのはよく知られたことである。
 その一方性的な暗示については性欲をかけらも持たない人間が極めて少ないため、多くの人間が暗示にかかる。
 いっとき流行した、退行催眠で過去のトラウマを癒すというセラピーで実際には存在しなかった幼い頃の肉親からのレイプ体験を『思い出す』者が多かったのも、多くの例では術者がそのように誘導したわけではなく、被術者自身の性欲と親への当たり前の情愛と絶対強者に対する恐怖心などがそういった偽の記憶を浮かび上がらせるのだ。
 つまるところ、肉親と死に分かれ義家族と関係がこじれた末にこの何もないワンルームマンションで虚無のような生活している少年は、親愛に関する願望を身の内に抱えている筈で、それは容易に催眠の贄になるだろう。
 少年の前に腰を下ろして、ポケットからペンデュラムを取り出す。
 それを目の前で揺らしても、少年の視線はピクリとも反応しなかった。
「当麻、この振り子の先の水晶を目だけで追いなさい」
 一言、そう言ってやるだけで、漆黒ではなく藍の滲むような色合いの眼が右に左にと振り子を追って動き出す。
 教材にしたいほどの催眠感受性の高さに笑いを堪えながら、その耳元に暗示となる言葉を囁きかけた。

コメント